活字書体をつむぐ

Blog版『活字書体の総目録』

2014-01-01から1年間の記事一覧

07A-1 和字書体「いけはら」のよりどころ

原資料:『長崎新聞 第四號』(新街活版所、1873年) 本木昌造の新街活版所で印刷された『長崎新聞 第四號』にもちいられた活字の版下を揮毫したのが池原香穉(1830—1884)といわれている。池原は長崎の池原香祗の二男として生まれた。実兄の池原枳園は書家…

07A 和字セミカーシヴ[金属活字版]

本木昌造が1870年(明治3年)に、新街私塾の一事業として創業したのが新街活版所である。その新街活版所で印刷された『長崎新聞 第四號』にもちいられた活字の版下を揮毫したのが池原香穉(1830—1884)といわれている。 江川活版製造所は、福井県出身の江川…

07B-1 和字書体「いしぶみ」のよりどころ

原資料:「槙舎落合大人之碑」(1891年頃、雑司が谷霊園) 全国には多くの墓碑があるにもかかわらず、行書体の完全碑はほとんど見ることがない。数少ない例が落合直澄〔なおずみ〕(1840—1891)の顕彰碑である「槙舎落合大人〔うし〕之碑」(雑司が谷霊園1…

07B 和字セミカーシヴ[碑刻の書体]

明治時代には建碑も盛況で、日下部明鶴〔くさかべめいかく〕(1838−1922)は全国に1000基もの碑文を書いたといわれているなど、多くの名だたる書家が携わっている。1893年(明治26年)ごろからは、田鶴年〔でんかくねん〕、広群鶴〔こうぐんかく〕、窪世升〔…

06B-4 和字書体「えど」のよりどころ

原資料:『偐紫田舎源氏』(柳亭種彦、1829年—1842年) 柳亭種彦(1783—1842)は江戸後期の戯作者である。江戸の人で、本名を高屋知久〔たかやともひさ〕、通称を彦四郎という。はじめ読本〔よみほん〕を発表、のち合巻〔ごうかん〕に転じた。 『偐紫〔にせ…

06B-3 和字書体「すずり」のよりどころ

原資料:『玉あられ』(本居宣長著、柏屋兵助ほか、1792年) 本居宣長の著書で、版木彫刻によるものである。近世の歌文に著しい誤用があるのを正そうと思い、古文の用法を思いつくままに説明したものである。 古文とは変わって近世の歌文が聞き慣れなくなっ…

06B-2 和字書体「なにわ」のよりどころ

原資料:『曾根崎心中』(近松門左衛門、1703年) 近松門左衛門(1653—1724)は、江戸中期の浄瑠璃・歌舞伎作者である。坂田藤十郎(1647—1709)のために脚本を書き、その名演技と相まって上方歌舞伎の全盛を招いた。また、竹本義太夫(1651—1714)のために…

06B-1 和字書体「げんろく」のよりどころ

原資料:『世間胸算用』(井原西鶴、1692年) 井原西鶴(1642—1693)は小説の流行作家としてつぎつぎに傑作を発表した。西鶴の作品のいずれもが、元禄の町人や武士の実生活の様相を見すえた作品である。特に晩年から没後の遺稿では、経済社会の夢と現実の落…

06B 和字カーシヴ[木版(整版)・近世活字版]

江戸時代の民間出版社による文学系の書物は、木版印刷によって製作された。彫刻によるアウトラインの単純化と力強さが顕著に見られる。 仮名草子・浮世草子・八文字屋本 元禄文化を中心とした江戸時代前期では、仮名草子・浮世草子・八文字屋本がある。仮名…

06A-2 和字書体「さがの」のよりどころ

原資料:『伊勢物語』(1608年)嵯峨本 角倉素庵(与一 1571−1632)は、希代の事業家・角倉了以の長男である。父の事業を継いで海外貿易・土木事業を推進した素庵は、また文化人としても卓越した業績を残している。晩年になって嵯峨に隠棲した素庵は、数多く…

06A-1 和字書体「ばてれん」のよりどころ

原資料:『ぎや・ど・ぺかどる』(1599年)キリシタン版 長崎が開港した翌年の1571年(元亀2年)、岬の突端には「岬の教会」とも称されたサン・パウロ教会が建立された。この教会は1601年(慶長6年)に、当時の長崎で一番大きい「被昇天の聖母教会」に建て直…

06A 和字カーシヴ[古活字版]

安土桃山時代は、長い戦国争乱の状態から急速に統一が達成され、自由闊達な人間中心の文化が展開した。雄大な城郭・社寺などが造営され、内部を飾る華麗な障屏画が描かれる一方、民衆の生活を題材とした風俗画のジャンルが確立している。 寛永年間(1624—164…

10-4 和字書体「さよひめ」のよりどころ

原資料:『さよひめ』(作者不詳、室町後期?、奈良絵本) 室町時代から江戸初期に流行した物語類は御伽草子あるいは室町物語ともいわれるが、その一部は挿絵入りの短編物語の「奈良絵本」の形で伝来している。「奈良絵本」は、嫁入り本とも呼ばれる。奈良絵…

10-3 和字書体「たかさご」のよりどころ

原資料:『風姿花伝』写本(世阿弥元清著、室町前期?、金春本) 室町時代には芸能が豊かな展開をみせて、伝統として受け継がれるような成熟に到達した。芸能とは人間の身体で表現する技法と型の伝承をいい、歌謡・舞踊・演劇などが代表的なものだ。 平安時…

10-2 和字書体「やぶさめ」のよりどころ

原資料:『更級日記』写本(菅原孝標女著、1230年?、御物・藤原定家筆) 鎌倉幕府が成立して政治権力は鎌倉に移動した。そうなると京都は文化の担い手としての公家の都となり、また高度な技術を伝える職人の町にもなった。公家はその文化面の専門性をたかめ…

10-1 和字書体「あけぼの」のよりどころ

原資料:『和漢朗詠集』写本(藤原公任撰、1013年?、御物・粘葉本) 奈良時代の貴族社会の知的活動は、中国の古典を読み漢文を作ることが中心だったが、894年に遣唐使が廃止されて中国文化の受容がとだえると、わが国独自の文化の発達がみられるようになっ…

10 和字マニュスクリプト

写本とは、手書きで書き写して巻子本、冊子本としたものである。木版、木活字版、銅活字版で印刷された冊子を「刊本」という。とくに木版で印刷したものを「版本」ともいう。 書道においては「色紙」などを軸装したものが観賞用としてもっとも評価されている…

0-4 「くまそ」と「えみし」の系譜

明治時代以降にアメリカから伝来した欧字書体に「gothic」、「antique」があり、名称が同一の漢字書体「ゴチック形」、「アンチック形」があらわれた。これを「呉竹体」「安智体」と名付けた。これらと組み合わされた和字書体のカテゴリー名を「くまそ」、「…

0-3 「やまと」の系譜

和様とは日本風の書体のことで、本来はひらがな漢字混じり文で表記されており、漢字・ひらがなをふくめて「和様」なのである。とくに和字(ひらがなとカタカナ)を「やまと」ということにする。 真仮名(万葉仮名)の成立 漢字をかりて音節文字として使用し…

0-2 「ひのもと」の系譜

国語科書写において「漢字の楷書と調和する仮名」と表記されている和字書体の系統を「ひのもと」ということにする。 ※以前は「本様体」といっていたが、和字書体については、できるだけ和語でしるすことにした。 和文系統の文章がひらがな漢字交じり文で記述…

0-1 和文体と漢文体

和文体 安乎尓余志奈良能美夜古尓多奈妣家流安麻能之良久毛見礼杼安可奴加毛 これは漢字をかりて音節文字として使用した臨時の文字「仮名〈かな〉」である。真書(楷書)でかいたとき「真仮名〈まがな〉」あるいは「万葉仮名」といい、草書でかいたとき「草…

09C 呉竹体の変形——羅篆形・フワンテル形・ラウンドゴチック形

欧字書体としてのラテン(Latin)、ファンテール(Fantail)、ラウンド・ゴシック(Round Gothic)は装飾用の書体とされている。漢字書体もおそらくは装飾用として用いられるものと思われる。 『参號明朝活字総数見本』(1928年 東京築地活版製造所)は、そ…

09A-1 漢字書体「伯林」のよりどころ

原資料:『座右之友』(東京築地活版製造所、1895年)より「五號ゴチック形文字」19世紀の呉竹体の見本としては、『座右之友』(東京築地活版製造所、1895年)の86ページに掲載されている「五號ゴチック形文字」がある。20世紀の呉竹体に比べるときわめてシ…

09A-2 漢字書体「端午」のよりどころ

原資料:『中国古音学』(張世禄著、上海・商務印書館、1930年) 中国の書物においても本文は近代明朝体だが、見出しにはゴシック体が用いられている。1930年代には「呉竹体」は見出し用として少しずつ定着していったようだ。『中国古音学』の本文は近代明朝…

08B-1 漢字書体「方広」のよりどころ

原資料:『大方廣佛華巖経』(990年—994年 龍興寺) 杭州の龍興寺で刊行された『大方廣佛華巖経』は、1折5行、1行に15字があり、折本のもっとも普遍的な体裁である。 『華厳経』は、すでに成立していた別々の独立経典を四世紀中葉以前に中央アジアのコータン…

09A 呉竹体

一般的にはゴシック体とよばれ、明朝体、安智(アンチック)体とともに、現代日本語書体における主要3書体としたい書体である。しかしながらゴシック体とは西洋からの外来語であり、漢字書体には不似合いに思われた。中国では、黒体としているようだがピン…

10D-1 漢字書体「造像」のよりどころ

原資料 「長楽王丘穆陵亮夫人尉遅造像記」(四九五年) 造像記のなかで、とくに優れた20点が「龍門二十品」とされ、北魏真書の書蹟として知られている。その「龍門二十品」のなかでも「長楽王丘穆陵亮夫人尉遅造像記」(一般的には造像記中で弔われている息…

10D 魏碑体

西晋は仏教を積極的に取り入れたが、五胡十六国を制覇した北魏でも同じだった。孝文帝(467年—499年、在位:471年—499年)は漢化政策を急速に推し進め、洛陽へ遷都するとともに、さらに仏教に深く帰依した。これにともない国内の仏教信仰が極めて盛んになり…

09B-1 漢字書体「銘石」のよりどころ

原資料:「王興之墓誌」(341年) 『王興之墓誌』は1965年に南京市郊外の象山で出土した。王興之は王羲之の従兄弟にあたる。この墓誌銘の裏面には、王興之の妻であった宋和之の墓誌すなわち『王興之妻宋和之墓誌』(348年)が刻まれている。 「王興之墓誌」…

08A 安竹体

一般的にはアンチック体とよばれ、明朝体、呉竹(ゴシック)体とともに、現代日本語書体における主要3書体としたい書体である。アンチック体とは西洋からの外来語であり、漢字書体には不似合いに思われた。中国では宋黒としているようだがピンと来ない。そ…