活字書体をつむぐ

Blog版『活字書体の総目録』

0-2 「ひのもと」の系譜

国語科書写において「漢字の楷書と調和する仮名」と表記されている和字書体の系統を「ひのもと」ということにする。

※以前は「本様体」といっていたが、和字書体については、できるだけ和語でしるすことにした。

 和文系統の文章がひらがな漢字交じり文で記述され和様・御家流で書写されたのにたいし、漢文系統の文章は漢字カタカナ交じり文で唐様・楷書体で書写されていた。

 楷書体に調和するということは、漢文系統の文章である漢文訓読文のカタカナ書体にあわせてひらがな書体が形成されていったと考えられる。「ひのもと」は、漢文体系統・漢字カタカナ混じり文の「カタカナ」にたいして「ひらがな」の書風をあわせたものをさす。

 

漢文体・東鑑体・宣命

奈良時代には漢文体、和化漢文体、宣命体が見られる。

 漢文体とは、中国語の文法にしたがって漢字・漢語で書かれた文章様式である。和化漢文体とは東鑑体ともいい、漢字だけをもちいた和文で書かれた文章様式である。

 また宣命体とは、体言や副詞・接続詞・連体詞・用言の語幹は訓読みの漢字で大きくしるし、用言活用語尾・助動詞・助詞などは真仮名(万葉仮名)で小さく右下によせて書く体裁の文章様式である。

  漢文体の印刷物としては奈良時代称徳天皇(718—770)の発願による『百万塔陀羅尼』や、平安時代中期の藤原道長(966—1027)の時代に起こった『摺経』がある。いずれも唐や宋の影響を受けたものだが、祈願や供養のためのものだったと考えられる。

 宋代には木版印刷の書物が隆盛をきわめており、わが国にも多くの刊本がもたらされたと思われる。わが国でも鎌倉時代後期から室町時代にかけて仏教寺院を中心に木版印刷による版本の量産が盛んになった。

 平安末期から鎌倉期にかけて奈良の興福寺で刊行された経典類を春日版という。春日神社に奉献されたものが多いところからきた名称で、ひろく奈良の諸寺で開板された版本の総称としてももちいられている。

 高野山金剛峯寺で出版された仏典の総称を高野版、比叡山延暦寺や門前の書店から刊行された仏書・漢書の総称を叡山版という。

 禅宗寺院では中国語がつかわれ、漢文で文章をつくる機会も多くなったため、宋や元の刊行物の覆刻も盛んに行われるようになった。禅僧も、蘇東坡や黄山谷の詩作を学んでいたようだ。

 京都や鎌倉の禅宗寺院によって刊行された禅籍・語録・詩文集・経巻などの木版本を五山版という。京都五山とは京都にある臨済宗の五大寺で、南禅寺を別格とし、その下に天竜寺・相国寺建仁寺東福寺万寿寺が位置する。鎌倉五山とは鎌倉にある臨済宗の五大寺で、建長寺円覚寺寿福寺浄智寺浄妙寺をさす。

 安土桃山時代の文禄勅版・慶長勅版、あるいは伏見版・駿河版といった木活字もしくは銅活字による印刷物も漢文で書かれたもので、その書体は元や明の出版物を覆刻したものであった。これらはいずれも漢文によって書かれたものである。

 

カタカナ宣命体・漢字カタカナ交じり文

平安時代になってカタカナが誕生すると、新たに「カタカナ宣命体」が成立する。カタカナ宣命体とは、形式上は前代の宣命体の真仮名(万葉仮名)の部分がカタカナになった体裁の文章様式である。

 鎌倉時代になると、奈良時代からの漢文体や和化漢文体、平安時代からのカタカナ宣命体のほかに、あらたに成立した和漢混淆文体が書かれている。和漢混淆文体とは和文の要素と漢文訓読語の要素を合わせもつ文体である。

 和文体系統のひらがな漢字交じり文の漢字が御家流で書かれたのにたいして、漢文体系統の漢字カタカナ交じり文の漢字は、おもに真書体(楷書体)系統で書かれた。文学関係の書物は和文体系統でしたが、仏典や、漢学(儒学)・洋学(蘭学)・国学などの学術関係の書物は漢文体系統であった。

 

漢字ひらがな交じり文

鎌倉時代には、漢字カタカナ交じり文とともに、すでに漢字ひらがな交じり文もあらわれているが、印刷物における漢文体系統のカタカナが、ひらがなにかわるのは、本居宣長らの国学者によるものだと思われる。