10D 魏碑体
西晋は仏教を積極的に取り入れたが、五胡十六国を制覇した北魏でも同じだった。孝文帝(467年—499年、在位:471年—499年)は漢化政策を急速に推し進め、洛陽へ遷都するとともに、さらに仏教に深く帰依した。これにともない国内の仏教信仰が極めて盛んになり、多数の寺院や仏像が造営されることになった。
孝文帝は、北魏の第七代皇帝である。姓は拓跋〔たくばつ〕、後に改姓して元、諱は宏と称した。493年に平城(現在の大同)から洛陽への遷都を強行し、また鮮卑の姓を中国風に改めるように決め、国姓を拓跋から元に改姓し、臣下達に対しても意欲的に中国風の姓を与えた。さらに鮮卑語などの鮮卑の習俗の禁止・鮮卑的な官名の排除、鮮卑の漢化政策を推し進めた。また通婚を行うことによる鮮卑と漢人の融和、鮮卑族の漢人社会に於ける名族としての位置づけをおこなった。
北魏では、崖地に洞窟をうがって磨崖仏を彫り石窟寺院を造営するようになった。その場所として選ばれたのが洛陽の南にある龍門の崖地であった。これが「龍門石窟」である。この石窟に彫られた仏像のそばには造像の動機や供養文、刻者の名前や刻した年月などが造像記として彫りつけられている。
「龍門石窟」は北魏の孝文帝が山西省の大同から洛陽に遷都した494年(太和18年)に始まる。仏教彫刻史上では雲崗期の後を受けた龍門期(494年—520年)と呼ばれる時期の初期にあたる。
造像記のなかで、とくに優れた20点が「龍門二十品」とされ、北魏真書の書蹟として知られている。その「龍門二十品」のなかでも「長楽王丘穆陵亮夫人尉遅造像記」(一般的には造像記中で弔われている息子の名前から「牛橛〔ぎゅうけつ〕造像記」ともいわれる)が代表的な造像記である。
「長楽王丘穆陵亮夫人尉遅造像記」(495年)