活字書体をつむぐ

Blog版『活字書体の総目録』

2014-05-01から1ヶ月間の記事一覧

0-2 「ひのもと」の系譜

国語科書写において「漢字の楷書と調和する仮名」と表記されている和字書体の系統を「ひのもと」ということにする。 ※以前は「本様体」といっていたが、和字書体については、できるだけ和語でしるすことにした。 和文系統の文章がひらがな漢字交じり文で記述…

0-1 和文体と漢文体

和文体 安乎尓余志奈良能美夜古尓多奈妣家流安麻能之良久毛見礼杼安可奴加毛 これは漢字をかりて音節文字として使用した臨時の文字「仮名〈かな〉」である。真書(楷書)でかいたとき「真仮名〈まがな〉」あるいは「万葉仮名」といい、草書でかいたとき「草…

09C 呉竹体の変形——羅篆形・フワンテル形・ラウンドゴチック形

欧字書体としてのラテン(Latin)、ファンテール(Fantail)、ラウンド・ゴシック(Round Gothic)は装飾用の書体とされている。漢字書体もおそらくは装飾用として用いられるものと思われる。 『参號明朝活字総数見本』(1928年 東京築地活版製造所)は、そ…

09A-1 漢字書体「伯林」のよりどころ

原資料:『座右之友』(東京築地活版製造所、1895年)より「五號ゴチック形文字」19世紀の呉竹体の見本としては、『座右之友』(東京築地活版製造所、1895年)の86ページに掲載されている「五號ゴチック形文字」がある。20世紀の呉竹体に比べるときわめてシ…

09A-2 漢字書体「端午」のよりどころ

原資料:『中国古音学』(張世禄著、上海・商務印書館、1930年) 中国の書物においても本文は近代明朝体だが、見出しにはゴシック体が用いられている。1930年代には「呉竹体」は見出し用として少しずつ定着していったようだ。『中国古音学』の本文は近代明朝…

08B-1 漢字書体「方広」のよりどころ

原資料:『大方廣佛華巖経』(990年—994年 龍興寺) 杭州の龍興寺で刊行された『大方廣佛華巖経』は、1折5行、1行に15字があり、折本のもっとも普遍的な体裁である。 『華厳経』は、すでに成立していた別々の独立経典を四世紀中葉以前に中央アジアのコータン…

09A 呉竹体

一般的にはゴシック体とよばれ、明朝体、安智(アンチック)体とともに、現代日本語書体における主要3書体としたい書体である。しかしながらゴシック体とは西洋からの外来語であり、漢字書体には不似合いに思われた。中国では、黒体としているようだがピン…

10D-1 漢字書体「造像」のよりどころ

原資料 「長楽王丘穆陵亮夫人尉遅造像記」(四九五年) 造像記のなかで、とくに優れた20点が「龍門二十品」とされ、北魏真書の書蹟として知られている。その「龍門二十品」のなかでも「長楽王丘穆陵亮夫人尉遅造像記」(一般的には造像記中で弔われている息…

10D 魏碑体

西晋は仏教を積極的に取り入れたが、五胡十六国を制覇した北魏でも同じだった。孝文帝(467年—499年、在位:471年—499年)は漢化政策を急速に推し進め、洛陽へ遷都するとともに、さらに仏教に深く帰依した。これにともない国内の仏教信仰が極めて盛んになり…

09B-1 漢字書体「銘石」のよりどころ

原資料:「王興之墓誌」(341年) 『王興之墓誌』は1965年に南京市郊外の象山で出土した。王興之は王羲之の従兄弟にあたる。この墓誌銘の裏面には、王興之の妻であった宋和之の墓誌すなわち『王興之妻宋和之墓誌』(348年)が刻まれている。 「王興之墓誌」…

08A 安竹体

一般的にはアンチック体とよばれ、明朝体、呉竹(ゴシック)体とともに、現代日本語書体における主要3書体としたい書体である。アンチック体とは西洋からの外来語であり、漢字書体には不似合いに思われた。中国では宋黒としているようだがピンと来ない。そ…

04-2 漢字書体「上巳」のよりどころ

原資料:『中国古音学』(張世禄、1930年、商務印書館) 商務印書館(Commercial Press)は1897年(光緒23年)2月11日に、上海捷報館(China Gazette)の植字工だった夏瑞芳と鮑咸恩、上海美華書館ではたらいていた鮑咸昌と高鳳池が、北米長老会の牧師で当時…

04-1 漢字書体「美華」のよりどころ

原資料:『舊約全書』(1865年 美華書館) ウィリアム・ギャンブル(William Gamble、姜別利、1830−1886)は、「華花聖経書房」に1858年10月に赴任した。ギャンブルは1869年10月に辞任するまでの11年の間に、中国語の印刷技術に大きな功績を残している。 最…

04 近代明朝体

中国・清王朝はアヘン戦争前と、アヘン戦争後に分けられる。アヘン戦争とは、1840年から1842年にかけ、清国のアヘン輸入禁止によってイギリスと清との間に起こった戦争である。清は大きく敗北して南京条約を結び、香港を割譲したほか、広州・福州・厦門(ア…

03-3 漢字書体「宝玉」のよりどころ

原資料:『紅楼夢』(1791年 萃文書屋) 『紅楼夢』は、1776年(乾隆56年)に程偉元(?−1818)の萃文書屋によって刊行された。貴公子・賈宝玉と、その従妹・林黛玉との悲恋を中心に、当時の生活を描いた長編小説である。原題は『石頭記』といい、石に刻まれ…

03-2 漢字書体「聚珍」のよりどころ

原資料:『武英殿聚珍版程式』(1776年 武英殿) 清朝におけるもっとも盛大な編纂計画は乾隆帝(在位:1735−1795)の時代に完成した写本の『四庫全書』である。さらに乾隆帝は『四庫全書』のなかから重要な書物を選んで、木活字で大量に印刷させた。 金簡(…