2014-07-01から1ヶ月間の記事一覧
背景 和字書体の歴史を辿ると、おもに文芸書をしるした「ひらがな文(和様漢字+ひらがな)」の系統と、おもに学術書をしるした「カタカナ文(楷書漢字+カタカナ)」の系統がある。前者は欧字書体のイタリック体もしくはスクリプト体に相当し、後者はローマ…
和字書体の歴史とは、おもに文芸書をしるした「和様漢字+ひらがな」の系統と、おもに学術書をしるした「楷書漢字+カタカナ」の系統がある。前者は欧字書体のイタリック体もしくはスクリプト体に相当し、後者はローマン体に相当するものと考えられる。 この…
原資料:『富多無可思』(青山進行堂活版製造所)より南海堂行書体活字 湯川梧窓(享 1856—1924)は大阪で生まれた。幼時から書を学び、張旭、黄山谷その他古法帖によって研究して一家をなし、村田海石と並び称されたそうである。湯川梧窓が版下を制作した南…
原資料:『作文独学大全』(多田省軒編、和田文宝堂、1894年) 江川活版製造所は、江川次之進(1851—1912)が創立した。1886年(明治19年)に著名な書家の久永其頴(多三郎)に版下の揮毫を依頼し、3、4年を費やして二号が、ついで五号活字が完成、ひきつづ…
原資料:『長崎新聞 第四號』(新街活版所、1873年) 本木昌造の新街活版所で印刷された『長崎新聞 第四號』にもちいられた活字の版下を揮毫したのが池原香穉(1830—1884)といわれている。池原は長崎の池原香祗の二男として生まれた。実兄の池原枳園は書家…
本木昌造が1870年(明治3年)に、新街私塾の一事業として創業したのが新街活版所である。その新街活版所で印刷された『長崎新聞 第四號』にもちいられた活字の版下を揮毫したのが池原香穉(1830—1884)といわれている。 江川活版製造所は、福井県出身の江川…
原資料:「槙舎落合大人之碑」(1891年頃、雑司が谷霊園) 全国には多くの墓碑があるにもかかわらず、行書体の完全碑はほとんど見ることがない。数少ない例が落合直澄〔なおずみ〕(1840—1891)の顕彰碑である「槙舎落合大人〔うし〕之碑」(雑司が谷霊園1…
明治時代には建碑も盛況で、日下部明鶴〔くさかべめいかく〕(1838−1922)は全国に1000基もの碑文を書いたといわれているなど、多くの名だたる書家が携わっている。1893年(明治26年)ごろからは、田鶴年〔でんかくねん〕、広群鶴〔こうぐんかく〕、窪世升〔…
原資料:『偐紫田舎源氏』(柳亭種彦、1829年—1842年) 柳亭種彦(1783—1842)は江戸後期の戯作者である。江戸の人で、本名を高屋知久〔たかやともひさ〕、通称を彦四郎という。はじめ読本〔よみほん〕を発表、のち合巻〔ごうかん〕に転じた。 『偐紫〔にせ…
原資料:『玉あられ』(本居宣長著、柏屋兵助ほか、1792年) 本居宣長の著書で、版木彫刻によるものである。近世の歌文に著しい誤用があるのを正そうと思い、古文の用法を思いつくままに説明したものである。 古文とは変わって近世の歌文が聞き慣れなくなっ…
原資料:『曾根崎心中』(近松門左衛門、1703年) 近松門左衛門(1653—1724)は、江戸中期の浄瑠璃・歌舞伎作者である。坂田藤十郎(1647—1709)のために脚本を書き、その名演技と相まって上方歌舞伎の全盛を招いた。また、竹本義太夫(1651—1714)のために…
原資料:『世間胸算用』(井原西鶴、1692年) 井原西鶴(1642—1693)は小説の流行作家としてつぎつぎに傑作を発表した。西鶴の作品のいずれもが、元禄の町人や武士の実生活の様相を見すえた作品である。特に晩年から没後の遺稿では、経済社会の夢と現実の落…