活字書体設計1

[活字書体をつむぐ]日本・中国・欧米の書写と印刷の歴史に育まれた書体をまとめています。

3 銘石体/魏碑体/経典体

銘石体
漢王朝のあとに中国を統一したのは晋王朝であるが、三国時代南北朝時代にはさまれて、我々の意識の中では埋没しているようだ。
 東漢の滅亡後、280年の晋の統一まで、魏・蜀・呉の三国が天下を三分し、互いに抗争した時代を「三国時代」という。晋は三国のうちの魏の権臣・司馬炎が二六五年に禅譲を受けて建てた王朝である。
 漢と同じように、都を洛陽とした西晋と、建康(南京)とした東晋に分けられる。西晋は都を洛陽におき、280年に呉を平定して天下を統一した。ところが八王の乱を機に五胡が起こり316年に匈奴劉曜によって滅ぼされた。翌317年、王族の司馬睿〔しばえい〕が江南に拠り、建康(南京)を都にして再興した。この東晋も王威がふるわずに混乱してしまい、419年に武将・劉裕〔りゅうゆう〕によって滅ぼされた。
 つづく南北朝時代は、漢民族南朝鮮卑族北朝が対立した時代である。北魏〔ほくぎ〕が439年に華北を統一して江南の劉宋と対してから、589年に隋〔ずい〕が陳を滅ぼすまでをいう。約150年間で、南朝は四王朝(劉宋・南斉・梁・陳)、北朝は五王朝(北魏東魏西魏北斉北周)が興亡した。
 劉宋は南北朝時代南朝最初の王朝である。420年に東晋の武将・劉裕が建国し、都を建康(南京)においた。479年、八世の順帝が武将・蕭道成〔しょうどうせい〕(南斉の高帝)に帝位を禅譲して滅んた。三国時代の呉、建康(南京)を都にして再興した東晋と、南朝における四王朝と合わせた「六朝」という。
 一方、北魏南北朝時代北朝最初の王朝である。386年に鮮卑〔せんぴ〕族の拓跋珪〔たくばつけい〕が建国した。第三代の太武帝の時、華北を統一し、都は初め平城(山西省大同)におかれ、493年に洛陽に遷都した。534年には東西に分裂し、東魏は550年、西魏は556年に滅亡した。
 三国時代の魏の武帝曹操は205年に「立碑の禁」を出した。西晋武帝司馬炎も「石獣碑表」をつくることを禁じた。これらは当時の厚葬の習慣を戒めたものである。
「立碑の禁」が出て以来、碑を立てることは少なくなったが、そのかわりに小さな「墓碑」を墓の中に埋めるという形式が行われるようになった。東晋になると地中の「墓碑」はなくなり、碑における事跡の部分だけを石版に彫りつけて柩とともに埋める「墓誌銘」という形式が出現するようになった。墓誌とは墓石に死者の事跡などを記した文のことである。
 中国・晋代の墓誌にもちいられた隷書体を、とくに「銘石体」という。その典型的な例が『王興之墓誌』(341年)と『王興之妻宋和之墓誌』(348年)である。この他にも、王氏一族の王閩之、王丹虎のふたりの墓誌が出土しており、いずれも『王興之墓誌』と同じ書風である。

 

経典体

中国の印刷の初期において、仏教経典・儒教経典で用いられたのは荘厳で権威的なイメージのある肉太の真書体字様であった。これを「経典体」ということにする。
 仏教経典の印刷は唐代から行われており、時代と地域を越えて、経典の形態、字様、版式に大きな変化はみられなかった。代表的な「経典体」として、北宋龍興寺刊本『大方廣佛華巖経』(990年−994年)があげられる。
 わが国の「春日版」なども同様の字様があり、中国の仏教経典から覆刻を繰り返したものではないかと思われる。