活字書体をつむぐ

Blog版『活字書体の総目録』

10F 楷書体

楷書は、草書と同様に隷書から発展したものだが、草書が簡単で速く書けることを求めたのに対し、謹厳で荘重な書体として発達した。楷書は、公式的な文書で使われる書体である。

楷の木は桧に似たウルシ科の常緑高木である。中国の曲阜の孔子廟に子貢が自ら植えたといわれ、日本でも儒教と関連のある学校などに植えられている。枝が整然としていることから転じて、「正しい」とか「手本にする」という意味になったようだ。

640年に唐王朝・太宗の勅命によって、『五経正義』という科挙の試験用の国定教科書が完成した。その編集者は孔頴達(こうえいたつ 孔子の子孫)、書体の責任者は顔師古(顔真卿の祖先)であった。顔師古は字体の正・俗をさだめ書体の統一に努力した。

楷書の字体を決定づけたのが『干禄字書』である。中国では隋の時代に制定され行われた科挙(かきょ)という官吏登用のための資格試験があった。唐代には秀才・明経・進士など六科(りくか)があり、経書や詩文について試験をおこなった。官吏としての栄達にかかわるため、きびしい競争があり、弊害も大きかったといわれている。

顔師古の四世の孫である顔元孫(顔真卿の伯父)は、『五経正義』をもとにして『干禄字書』を完成して「楷書」の字体を正体・通体・俗体に分類した。唐代には秘書省という天子図書館があったが、そこにはおよそ100名の写字生が勤めており、おもに教科書や仏教経典の写本に従事していた。『五経正義』の字様は、顔真卿に受け継がれた。

一方で、弘文館という天子学問所には儒士や書士を招いて皇室の教育をおこなったが、そこには唐の時代を代表する書家であった虞世南欧陽詢が学士として出仕し、儒学経典の書体の主導権を握っていた。

書法芸術(書道)においては、虞世南書「孔子廟堂碑」(626年)、欧陽詢書「皇甫誕碑」(627—641)、禇遂良書「雁塔聖教序碑」(653年)などが古くから高く評価され、初唐三大家といわれている。

このうち、欧陽詢(557—641)は、中国、唐代初期の官僚であったが、能書家としても著名である。王羲之の書法を学び楷書の規範をつくった。人間的なにおいを殺して、ひたすら様式を追うタイプだったともいわれている。楷書が得意で、「皇甫誕碑」のほか、「九成宮醴泉銘」(632年)などがある。

中唐の顔真卿(709—785)は、中国・唐の政治家であるが、能書家としても著名である。情熱的で熱血漢だったようで、書も剛直な性格があふれる新風をひらいた。「多宝塔碑」(752年)、「顔氏家廟碑」(780年)などが代表作とされる。

晩唐の柳公権(778—865)は、中国の唐代の書家である。幼時より学問を好み、地方に転出することもなく、40年以上も中央政府で官職を与えられた。柳公権の代表作として、「玄秘塔碑」(841年)、「神策軍紀聖徳碑」(843年)などがある。

このような頌徳碑をさけて『開成石経』をとりあげることにしたのは、『開成石経』が唐の標準書体といえるもので、活字書体としての源流として位置づけたいという思いからである。

書写を忠実に彫る写刻は宋朝の時代からあったが、彫刻の困難さや可読性への配慮から序文だけに限られ、熟練した彫工が担当していた。序文だけではなくて刊本全体にも書写系の字様が多く使用されるようになったのは清代からである。清代の私刻本の多くは手書きの文字が忠実に彫られた写刻本であった。