活字書体をつむぐ

Blog版『活字書体の総目録』

01 宋朝体

中国・宋は、後周の節度使(軍職)であった趙匡胤〔ちょうきょういん〕が、後周のあとを承けて960年に建国した。忭京〔べんけい〕(開封〔かいほう〕)を都とし、文治主義による君主独裁制を樹立した。

1129年、金の侵入により江南に移り、都を臨安に置いたので、それ以前を北宋といい、1279年に元に滅ぼされるまでを南宋という。

宋朝体は、中国の宋代(960—1279)の木版印刷にあらわれた書体である。唐代に勃興した印刷事業が宋代に最高潮に達し、また唐代の能書家の書風は宋代の印刷書体として実を結んだ。浙江、四川、福建が宋代における印刷事業の三大産地であり、それぞれが独自の宋朝体をうみだした。

北宋・浙江刊本

北宋の時代(960—1127)、つまり首都が忭京にあったときでも、杭州のある浙江地方はもともと木版印刷の伝統があり、また紙の産地だったので、出版産業がおおいに発展していた。交通や産業が発達して経済が豊かであり、文学が活発だったことも、出版産業が栄えた要因としてあげられる。

浙江地方の刊本は官刊本が中心で、唐代の碑文の書風に近い写刻本として刊行された。浙江地方の刊本は、初唐の欧陽詢(557—641)書風による字様だといわれる。

南宋・四川刊本

成都四川盆地の西部に位置し、古来より交通・経済の要衝であった。東漢のあとの三国(魏・呉・蜀)時代には蜀漢として劉備が治めた。また唐のあとの五代十国の時代には前蜀の都がおかれた。

成都のある四川地方は木版印刷術の発祥地のひとつであった。唐代からの技術の蓄積があり、宋代においてもその技術が引き継がれた。とりわけ961年に成都で『大蔵経』の版木が彫られ、それは12年の歳月をかけて983年に完成した。この版木は開封に移され、開封で印刷されたようだ。

北宋と金との戦争でも四川地方は戦禍をまぬがれたので、南宋による官刊本の復興に大きな貢献をはたした。南宋の時代には、四川の出版業はしだいに眉山が発展してきた。眉山では、『眉山七史』をはじめ多くの刊本が印刷された。

四川刊本の特徴は文字サイズが大きいことで知られており、「蜀大字」とよばれている。四川地方の刊本は、中唐の顔真卿(709—785)書風による字様だといわれる。

南宋・福建刊本

中国・福建省の北部にある建陽と建安(現在の建甌)は、山間部に位置しているために版木の材料も豊富であり、製紙業も発達していたので紙の供給も十分にあり、出版業に向く条件に恵まれていた。福建刊本は種類も豊富で、出版部数も多く、流通範囲も広いものだった。

建陽の麻沙鎮、崇化鎮の二地区にあった書坊は「図書の府」ともよばれていたそうだ。福建地方の刊本は晩唐の柳公権(778—865)書風による字様だといわれる。

南宋・浙江刊本

中国・南宋の首都であった「臨安〔りんあん〕」とは、金の圧迫で南方に移った宋が、1127年に臨時の都の意味で名づけたもので、現在の杭州市にあたる。

南宋の時代(1127—1279)にはいると、臨安(現在の杭州)に都がおかれ、ますます書物の復興や印刷の隆盛をみた。とりわけ唐から北宋にかけての名家による詩文集や文学書の刊行が中心になっていった。