活字書体をつむぐ

Blog版『活字書体の収穫祭』

05 清朝体

中国・清王朝(1616−1912)は、中国最後の統一王朝である。女真族(のちに満洲族に改称)の弩爾哈斉〔ヌルハチ〕(1559−1626)が明を滅ぼし国号を後金として建国、皇太極〔ホンタイジ〕のときに国号が清と改称された。首都は盛京(瀋陽)であった。

順治帝のときに首都が北京に移された。少数の満洲族が大多数の漢民族をはじめとする多民族を支配することになったが、順治帝は漢文化に傾倒したことでも知られている。

康煕帝雍正帝乾隆帝の三代の世に、清は最盛期を迎えた。三世の皇帝はいずれも類まれな文人であり、文化事業も盛んであった。一方で、異民族支配による文人達の反抗を抑えるために、「文字の獄」と呼ばれる厳しい弾圧を行なっている。

中国・清代の官刻本および坊刻本にみられる書写系の刊本字様を「清朝体」ということにする。

官刻本(武英殿)

康煕年間(1662—1722)に、紫禁城(現在の故宮)の西華門内の武英殿に編纂所が設けられた。木版印刷による武英殿刊本としては、康煕帝の著作である『御製文集』(1711)がその代表例である。

官刻本(揚州詩局)

武英殿刊本をしのぐ品質とされるのが地方官庁による官刻本である。曹寅(1658−1712)が主管した揚州詩局で刊行されたもので、代表的なものが康煕帝の命により編纂された唐詩全集である『欽定全唐詩』(1707年)である。

揚州詩局ではその膨大な刊刻事業のため、字様の書写を担当する名手のなかから書風のちかい職人を選抜して、康煕帝の推奨する字様を統一された表情によって書けるように、徹底した訓練が実施されたという。ある意味では「書体の統一概念」にもとづいてつくられた字様だった。

坊刻本・家刻本

揚州詩局の『欽定全唐詩』などの字様は、民間の個人出版や書坊にも影響をあたえた。浙江・嘉興の敦古堂書斎が刊刻した『嘉興詩繋』(1710年)、浙江の張礼が刊刻した『西湖夢尋』(1717年)があげられる。