活字書体設計1

[活字書体をつむぐ]日本・中国・欧米の書写と印刷の歴史に育まれた書体をまとめています。

9 ひのもとのかなめ

これまで見てきた「ひのもとのめばえ(ドーンスタイル)」・「ひのもとのいぶき(オールドスタイル)」・「ひのもとのさかえ(ニュースタイル)」・「ひのもとのゆたか(モダンスタイル)」とは、いわば彫刻系統の書体だといえる。これらとは別に、書写系統の書体もある。これを「ひのもとのかなめ」ということにする。「ひのもとのかなめ」は、小学校教科の書方手本や、木版印刷の教科書、教科書用活字書体(教科書体)として展開された。

書方手本

明治時代の書方手本には二大系統があるといわれている。欧陽詢の書法をこのんだ巻菱湖(1777—1843)の系統と、顔真卿の書法をもとにした長三洲(1833—1895)の系統である。はじめ長三洲の系統が勢力をもったが、福沢諭吉の唱導により巻菱湖の系統が全国的に流行した。長三洲の書法は児童には学びにくく、巻菱湖の書法が学びやすかったという。

 国定一期教科書の修正版からは甲種を顔真卿書法である長三洲系の日高梅谿(秩父 1852—1920)が揮毫し、乙種は欧陽詢書法である巻菱湖系の玉木愛石(亨 1853—1928)が揮毫することとなった。このとき両系統が並立することになった。

 これらの二大系統とは漢字の楷書のみをさしているのだが、和字とりわけひらがなは、漢字の楷書と調和するような平明な書風が必要とされた。それはまた、一字一音主義のひらがなを推進するものであった。

読方教科書

1871年(明治4年)7月に文部省が設置され、その翌年に学制が制定されるが、まだ教員も教科書もなかった。そこで文部省は東京師範学校を設立し、教員養成にとりかかった。

 文部省内で、教科書の編纂がはじまった。『文部省編纂小学読本』(1873年)は、漢字ひらがな交じりの表記で、文の終わりが○で示されている。師範学校でも教科書を編集していた。『師範学校編輯小学読本』(1874年)で、漢字カタカナ交じりの表記だが、文の終わりもすべて読点で統一されている。

 本格的に小学校教科書が編纂されたのは、1885年(明治18年)に内閣制度が創設されてからである。文部省編纂局の教科書として、『読書入門』(1886年)、『尋常小学読本』(1887年)、『高等小学読本』1887年などが作られた。