活字書体設計1

[活字書体をつむぐ]日本・中国・欧米の書写と印刷の歴史に育まれた書体をまとめています。

(参考)やまと 碑刻の書体

明治時代には建碑も盛況で、日下部明鶴〔くさかべめいかく〕(1838−1922)は全国に1000基もの碑文を書いたといわれているなど、多くの名だたる書家が携わっている。1893年(明治26年)ごろからは、田鶴年〔でんかくねん〕、広群鶴〔こうぐんかく〕、窪世升〔くぼせいしょう〕、井亀泉〔せいきせん〕、宮亀年〔みやきねん〕といった字彫専門の石工もあらわれた。

 石碑には題額または碑題と碑文を備えた「完全碑」と、墓石や道標のように碑題が独立したり、句碑や歌碑のように碑文が独立したりした「不完全碑」にわけられる。碑刻の基礎を知るのはやはり「完全碑」を見るのがよいとされている。

 

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「槙舎落合大人之碑」(1891年頃、雑司が谷霊園

このように全国には多くの墓碑があるにもかかわらず、行書体の完全碑はほとんど見ることがない。

 数少ない例が落合直澄〔なおずみ〕(1840—1891)の顕彰碑である「槙舎落合大人〔うし〕之碑」(雑司が谷霊園1種4B号3側)である。この碑の篆額は枢密顧問官・佐々木高行(1830—1910)の揮毫である。

 撰文は東京帝国大学文科大学教授・子中村清矩〔こなかむらきよのり〕(1821—1894)によるもので、その書写は華族女学校教科事業嘱託・阪正臣〔ばんまさおみ〕(1855—1931)の手になる。阪正臣は『桂宮万葉集』によって上代様を研究するとともに、漢字については王羲之の『十七帖』などに傾倒したといわれている。

 

活字書体「いしぶみM」

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