活字書体をつむぐ

Blog版『活字書体の総目録』

02 明朝体

中国・明王朝は、朱元璋(1328—1398)が蒙古族元王朝をたおして、現在の南京に建朝した。朱元璋明王朝の初代皇帝で、洪武帝(太祖)ともいう。洪武帝の第四子・朱棣(1360—1424)は現在の北京に燕王として封じられていたが、南京を攻略して第三代皇帝、永楽帝(成祖)となった。永楽帝は、のちに南京から北京に遷都した。

南京は中国・江蘇省省都で、揚子江の南岸に位置しているため水陸交通のたいせつな地点となっている。古来、三国の呉や六朝・明・中華民国などの都として栄えた。名称は建業・建康・金陵などに変わり、明の永楽帝のときに北京に対して南京と名づけられた。

明王朝の正徳・嘉靖年間(1506—1566)には、印刷物は貴族や官僚だけのものではなくなり、経済が豊かになった庶民の媒体になった。小説や戯曲などの趣味や娯楽のジャンルの刊本が多く出版された。

明朝体とは中国の明代(1368—1644)の木版印刷にあらわれた書体である。なお、清代後期の「近代明朝体」活字に対して、明代の刊本字様を「古明朝体」ということもある。

1553年(嘉靖32年)に刊刻された『墨子』においては、すでに明朝体の基礎が形成されていた。明朝後期の万暦年間(1573—1619)から刊本の数量が急速に増加し、製作の分業化が促進された。

木版印刷の三大系統とは、官刻(政府出版)・家刻(個人出版)・坊刻(商業出版)である(このほか、仏教版本を別系統にする場合がある)。明代には中央・地方の官刻本だけではなく、家刻本、坊刻本などにおいてもさかんに出版事業がおこなわれた。

監本(官刻)

中国で隋以後、貴族の子弟や世間の秀才を教育した国家経営の学校を「国子監」という。監本とは国子監で出版したものに対する呼称である。五代時代に、馮道が『九経』の版刻出版を国子監におこなわせたことが監本の始まりといわれる。これが最初の監本であると同時に官刻本の最初でもある。

以後、宋・元・明と監本は作られているが、現存する量の多さから現在では一般的に監本といえば明の国子監本をさすようになっている。明王朝では最初は南京に国子監が置かれていたが、永楽帝の北京遷都以後は北京にも国子監が置かれ、以後南京国子監が出版する本を南監本と呼び、北京国子監が出版する本を北監本と呼ぶようになった。

藩刻本(官刻)

明代においては、中央機関のほかに地方での官刻も盛んに行われた。皇子の身分で領地を分け与えられた各地の藩王は、政治的、軍事的に抑制された反面、豊かな経済条件を与えられていた。教育を重視し、学問の追求を愛好する藩王は、刊刻事業に積極的だった。豊かな経済力と地方政府の権威によって優秀な文人や刊刻職人が招聘されたので、藩王府の刊行した書物は、原稿、校正、彫版、印刷などの品質が高かった。

家刻本

書物の刊行が盛んになった万暦年間には、安徽・歙県の呉勉学、浙江・銭塘の胡文煥らが多くの書物を刊行しているが、もっとも代表的な家刻本が毛晋の「汲古閣」であった。

坊刻本

官刻本や家刻本には経典、歴史、文学者の詩文が中心であり、大衆の求める小説、実用書、百科事典などの類はあまり多くはなかった。この面の不足を補ったのが坊刻である。明代の書坊は、南京、建陽、杭州、北京などの地区に集中していた。

仏教刊本

大蔵経とは、仏教の聖典を総集したものである。経蔵・律蔵・論蔵の三蔵を中心に、それらの注釈書を加えたものとされる。略して蔵経とも、あるいは一切経ともいわれる。『嘉興蔵』が一般に明版といわれ(万暦版、楞厳寺版ともいわれている)、方冊型で見易いところから広く用いられた。